堀川歴史探索③ 堀川の誕生 ~堀川開削
- 2014/05/14
- 14:49
堀川歴史モノシリーズ 第3回です。
ブログアップしている本人も3回目を投稿することにびっくりです。
さて、気を取り直して、、、
今回は、堀川の開削についてご紹介。
名古屋の城下町は、熱田の浜(当時は熱田が海岸線であった)から離れた内陸部に設けられました。したがって城下で必要な米や野菜、魚、塩などの物資を大量に輸送できる手段は船しかありませんでした。
このため、築城と同じ慶長15年(1610)に、福島左衛門大夫正則により、海に面していた熱田と名古屋城下を結ぶ川が名古屋台地の西に沿って掘られました。
あれ?福島正則ってそのころ広島(安芸)にいたんじゃないの?
と気付かれた歴史オタクなに精通しているお方。
ご安心ください。徳川家康の命を受けて、このころは尾張(名古屋)にいたようです。
ちなみに慶長7年(1602年)には厳島神社の平家納経を修復されたとの記録もあるそうです。
土木工事が得意な殿様だったようですね。ただし、当時の技術では何もないところから「川」をつくる
ことは困難であったのでは?という説も存在し、何らかの川があったのではないかともされています。
このころは、あの関ヶ原の戦いもあったころで福島正則にとってはまさに激動の時代だったに
違いありません。名古屋城付近の普請においてはこんな逸話もあるようです。
・・・大名と言えど、今も昔も勤め人は大変なようです。
正則はその後、信濃国(信州地方)減封・転封させられ、そこで没しています。享年64。
さて、話を堀川に戻しましょう。
名古屋城西の幅下から熱田まで長さ1里半余り(約6km)、幅12~48間(約22~87m)の堀川の誕生です。堀留(上流端)は、名古屋城の外堀に設けられた辰の口(排水口)と水路でつながり、お堀の水が堀川に流入していました。

この頃の護岸は素掘りのままで、橋は七ヵ所に架けられ「堀川七橋」と呼ばれました。五条橋と伝馬橋は清須の五条川に架けられていたものを移築したと伝えられています。

堀川七橋
沿川には堀川の運河機能を利用する施設が配置されていました。碁盤割の城下町に接する納屋橋付近から上流部には、商人たちの蔵が並び、納屋橋の下流左岸には年貢米を収納する大規模な藩の蔵が設けられていました。現在の洲崎橋付近には船奉行や水主という水軍関係者の屋敷が配置され、当時の河口に近い現在の白鳥庭園付近には、御船蔵が設けられて軍船や豪華な御座船が収蔵されていました。また、藩領であった木曽からの木材を貯木する大規模な貯木場が設けられていました。

『尾張八郡図』(蓬左文庫所蔵)
寛政・享和年間(1789~1804)写
堀川は城下と海を結ぶ軍事・交通の要衝であったことがわかります。。

『名古屋図』(蓬左文庫所蔵)
享保18年(1733)頃写
堀川は名古屋城で堀留になっていた。

現在の五条橋付近。当時の擬宝珠(ぎぼし)には「五条橋慶長七年壬寅六月吉日」と堀川の開削より古い年号が刻まれ、現在は名古屋城で保管されており橋にはレプリカが取り付けられています。
堀川開削のお話 どうでしたか?
福島正則を偲んで堀川を歩いてみると正則が語りかけてくるかもしれませんよ。

堀川まちづくりの会会員の皆様の投稿もお待ちしております。
@堀川まちづくりの会事務局(河川計画課:松本)
ブログアップしている本人も3回目を投稿することにびっくりです。
さて、気を取り直して、、、
今回は、堀川の開削についてご紹介。
名古屋の城下町は、熱田の浜(当時は熱田が海岸線であった)から離れた内陸部に設けられました。したがって城下で必要な米や野菜、魚、塩などの物資を大量に輸送できる手段は船しかありませんでした。
このため、築城と同じ慶長15年(1610)に、福島左衛門大夫正則により、海に面していた熱田と名古屋城下を結ぶ川が名古屋台地の西に沿って掘られました。
あれ?福島正則ってそのころ広島(安芸)にいたんじゃないの?
と気付かれた歴史
ご安心ください。徳川家康の命を受けて、このころは尾張(名古屋)にいたようです。
ちなみに慶長7年(1602年)には厳島神社の平家納経を修復されたとの記録もあるそうです。
土木工事が得意な殿様だったようですね。ただし、当時の技術では何もないところから「川」をつくる
ことは困難であったのでは?という説も存在し、何らかの川があったのではないかともされています。
このころは、あの関ヶ原の戦いもあったころで福島正則にとってはまさに激動の時代だったに
違いありません。名古屋城付近の普請においてはこんな逸話もあるようです。
幕府の命で名古屋城の手伝普請に従事している際、「江戸や駿府はまだしも、ここでコキ使われたのでは堪らない」とこぼし、池田輝政に「お前は(家康の)婿殿だろう、我々のためにこのことを直訴してくれ」と迫った。輝政が沈黙していると、それを聞いていた加藤清正が笑いながら「滅多なことを言うな。築城がそんなに嫌なら国元に帰って謀反の支度をしろ。それが無理なら命令どおりに工期を急げ」とたしなめ、その場は収まったという(参考:wikipedia)。
・・・大名と言えど、今も昔も勤め人は大変なようです。
正則はその後、信濃国(信州地方)減封・転封させられ、そこで没しています。享年64。
さて、話を堀川に戻しましょう。
名古屋城西の幅下から熱田まで長さ1里半余り(約6km)、幅12~48間(約22~87m)の堀川の誕生です。堀留(上流端)は、名古屋城の外堀に設けられた辰の口(排水口)と水路でつながり、お堀の水が堀川に流入していました。

この頃の護岸は素掘りのままで、橋は七ヵ所に架けられ「堀川七橋」と呼ばれました。五条橋と伝馬橋は清須の五条川に架けられていたものを移築したと伝えられています。

堀川七橋
沿川には堀川の運河機能を利用する施設が配置されていました。碁盤割の城下町に接する納屋橋付近から上流部には、商人たちの蔵が並び、納屋橋の下流左岸には年貢米を収納する大規模な藩の蔵が設けられていました。現在の洲崎橋付近には船奉行や水主という水軍関係者の屋敷が配置され、当時の河口に近い現在の白鳥庭園付近には、御船蔵が設けられて軍船や豪華な御座船が収蔵されていました。また、藩領であった木曽からの木材を貯木する大規模な貯木場が設けられていました。

『尾張八郡図』(蓬左文庫所蔵)
寛政・享和年間(1789~1804)写
堀川は城下と海を結ぶ軍事・交通の要衝であったことがわかります。。

『名古屋図』(蓬左文庫所蔵)
享保18年(1733)頃写
堀川は名古屋城で堀留になっていた。

現在の五条橋付近。当時の擬宝珠(ぎぼし)には「五条橋慶長七年壬寅六月吉日」と堀川の開削より古い年号が刻まれ、現在は名古屋城で保管されており橋にはレプリカが取り付けられています。
堀川開削のお話 どうでしたか?
福島正則を偲んで堀川を歩いてみると正則が語りかけてくるかもしれませんよ。

堀川まちづくりの会会員の皆様の投稿もお待ちしております。
@堀川まちづくりの会事務局(河川計画課:松本)