黒川ドリーム会 梅本会長インタビュー
- 2014/05/26
- 20:48

北区で発足した3つの会が一緒にできるイベントをと始まった
黒川ドリーム会は、平成10年(1998)3月に“黒川の保全”を目的として発足しました。この時、北区では味鋺(あじま)いもを普及する「北・北(ほく・ほく)いもの会」と、からくり人形や名古屋友禅などの北区の文化にかかわる「ふるさと北文化に親しむ会」も同時に発足しています。せっかく3つの会ができたのだから、何か一緒にできることはないかと考えだされたのが、平成11年(1999)から始まった、桜の季節に黒川で名古屋友禅の糊を落とす「黒川友禅流し」です。
黒川沿いには、かつては沢山の染色工場がありました。そうした工場の人たちが黒川に入って行う「友禅流し」は、美しい風物詩でした。しかし、昭和30年代に入ると堀川も黒川も水質が次第に悪化し、風物詩も姿を消しました。
しかし、あることがきっかけとなって黒川の水質が浄化され、「友禅流し」ができるほど水がきれいになりました。子どもの頃から汚い堀川(黒川)しか知らない人たちは、実際に友禅流しをする光景を目にするまで、「信じられなかった」という方も多いようです。
黒川ドリーム会発足の年に堀川再生のきっかけとなる出来事が
黒川ドリーム会がスタートした同じ年の9月、黒川の上流で行われていた地下鉄上飯田線の工事で出る地下水が、黒川に流れるようになりました。当初は地下水を下水に流す予定でしたが、下水を使えば下水使用料がかかります。黒川に流すためには、出た地下水を黒川まで通す工事が必要ですが、完成すれば下水使用料は不要です。試算された結果、黒川に流す方が良いとされたのか、北区民の熱心な要望が功を奏したのか分かりませんが、きれいな地下水が黒川を流れることになりました。
この結果、黒川の水質が大幅に改善され、翌年には「友禅流し」ができるまでに復活し、徐々にきれいな水へと変わっていきました。地下水のことを知って、黒川ドリーム会を立ち上げたわけではありませんが、この偶然は今振り返っても夢のようです。まさしく『ドリームがかなう』、そのスタートでした。
「堀川まちづくりの会」は市民の目が堀川に向かう良いきっかけに
黒川ドリーム会では、黒川友禅流しの他にも、平成12年(2000)から始まった小学生などが黒川に入って自分たちの手で生き物を捕まえ、調べる「生き物観察会」、さらには6月の環境デーに行う北清水親水広場などの清掃、そして春と秋にも清掃活動をするなど、黒川の保全に努める活動を行っています。
生き物観察会は北区の小学生が中心でしたが、参加された先生が他の区に転勤されると「あの体験を、うちの児童にも」と広がっていき、昨年は約300人が参加しています。
「子ども時代に川での楽しい思い出をつくっておけば、大人になっても川を汚すようなことはしないだろう」という発想もあって、始めたことですが、実際に黒川に入って自由に生き物を捕まえてよいということが分かると、子どもたちの表情がまったく変わります。本当に、生き生きとして楽しそうです。子どもたちのそんな様子を見ていると、私たちも嬉しくなってきます。もっとも、観察会を見た女房に言わせると、「子どもたち以上に、あなたが一番楽しそうな顔をしていた」そうですから、私の川好きも相当なようです。
子供たちが感動するのは、「小さな川にも、沢山の生き物がいる」ということです。そこから、川は生き物を育む大切な場所であることも学んでもらえればと願っています。
また「堀川1000人調査隊」、これは漠然と堀川がきれいになったというのではなく、数値として堀川がきれいになったことを“市民の目で検証する”ために水質を調査するものです。年2回行い、今回で15回目となりました。1000人調査隊といっていますが、今は、隊員数は5万人を超えています。ここでも、実行委員会の会長をさせていただいています。黒川友禅流しもそうですが、私なりに「堀川に向いていない大多数の名古屋市民の目を、何とか堀川(黒川)に振り向けてもらいたい」という願いがあるからです。
その意味で、黒川ドリーム会も参加する「堀川まちづくりの会」がスタートすることは、市民の皆さんの目が堀川に向く、大きなきっかけになると期待しています。

明治の堀川大改修によって犬山―名古屋間がわずか4時間に
名古屋城から北の堀川が「黒川」と呼ばれるようになったのは、愛知県の技師であった黒川治愿(はるよし)さんの名前からです。黒川さんが、名古屋城から庄内川までの堀川を船が通れるように大改修する計画を立て、犬山から木曽川を通って、新木津用水、庄内川を横断して堀川に入る大運河をつくり出しました。庄内川から名古屋城までの堀川は途中で矢田川の下をくぐるのですが、このトンネルも船が通れる高さにするという、とてつもない大工事でした。それまでは犬山から船で木曽川を下って桑名に出て、海を渡って名古屋港(当時は熱田港)に着き、それから堀川を上がって名古屋に入るという水運しかありませんでした。このルートですと、7日から10日ほどもかかったそうです。しかし、黒川さんの作った運河を通ると、犬山から名古屋までたったの4時間で来られるようになったと言います。当時の人たちにとっては、現在の高速道路が完成したとき以上の驚きと、大きな経済効果をもたらしたに違いありません。
こうした堀川の歴史も知っていただきたいし、堀川にももっと親しんでもらいたいと思います。きれいになったと言っても、ヘドロやゴミなど、沢山の問題も残っています。黒川ドリーム会だけでは手に余ることも多くありましたが、民産学官が集まって知恵を出し合う「堀川まちづくりの会」ができたことで、もっと大きな夢が実現できると考えています。