堀川歴史探索④ 堀川の誕生 ~市街を水害から守る堀川
- 2014/05/29
- 13:54
皆さんいかがお過ごしでしょうか。そろそろ梅雨入りですね。と、言っても今日は夏日和の空ですが、、、。
昨年度の東海地方は5月28日に梅雨入りし、平年ですと6月8日だそうですので
そろそろ傘など新調して、梅雨時を楽しんでみては如何なものでしょうか。
さて、、、今日は、堀川歴史探索の4回目として「市街を水害から守る堀川」をご紹介したいと思います。
そう。今回で4回です。
「そろそろネタ切れかな~」と思ったあなた。
甘いです。堀川の歴史は深いんです。まだまだいっぱいネタがありますよ♪
いっぱいありすぎて、どれからご紹介したらいいか悩みがつきません。
前置きはこれくらいにして、、、、
今回は「そろそろ梅雨入り」ということで、市街から堀川を守っている母なる川「堀川」をご紹介していきます。
人間にとって川の最大の役割は水を安全に流すことです。時には大雨が降り一時に大量の水が川に集まり、水害により大きな被害を与えることもあります。また、市街地の排水が十分でないと、伝染病がまん延することもあります。
堀川は地域の川として大きな役割を担ってきました。碁盤割の市街地は名古屋台地にあり水害を受けにくい場所ですが、台地の北や西は土地が低く、何度も水害にあっています。明和4年(1767)には矢田川の堤防が切れ、名古屋城の幅下門近くまで水につかり、人々が舟で行き来したとの記録が残っています。これをきっかけに天明4年(1784)に大幸川が江川から堀川に流入するよう流路が変えられています。

また、昭和34年(1959)の伊勢湾台風では堀川の護岸も崩れ、高潮と重なり中下流域は大きな被害を受けました。このため名古屋港に沿った高潮防潮堤と堀川の河口に防潮水門が設置されました。
(以前ご紹介した記事:「堀川マニアックスポット② 構造物マニア必見」http://horimachi.blog.fc2.com/blog-entry-32.html
下水道が整備されるまで、各家の排水は側溝に流れ、幹線の排水路を経て堀川に流れ込んでいました。堀川の支川で一番大きいのは紫川でした。古地図を見ると碁盤割の市街地を南北に流れる水路と、広小路を東西に流れる水路があり、碁盤割の市街地の排水を集め、今の新洲崎橋付近で堀川に流入していました。

下水道が整備された現在では、家庭などから排水される汚水を下水管で集め、下水処理場で処理してから川に放流しています。堀川の流域は、汚水と雨水を同じ管で集める合流式下水道を採用しているため、降雨時には一定量までの雨水は下水処理場で処理されますが、一定量を越えた雨水は所々に設けられた雨水吐室などから堀川に放流され、堀川と下水道で街を浸水から守っています。


【H25年9月4日秋の集中豪雨@納屋橋付近】平成の現代においても堀川は重要な洪水調整機能を保っている。
いかがでしたか?昔から都市型水害から名古屋を守ってきた堀川。
他には、古くは武田信玄が甲府盆地を水害から守るために1542年に釜無川・御勅使川・塩川の三川合流を行い、あの「信玄堤」を築いたことは有名です。
また、安土桃山時代には富山城主佐々成政が越中国(えっちゅうのくに:現富山県)を守るため常願寺川に「佐々堤」をつくっています。
先人の努力に感謝感謝ですね。
まさに百年の計、一樹百穫。
次回をお楽しみに!!
堀川まちづくりの会 会員の方の書き込みもお待ちしております!!お気軽にご投稿ください♪
@堀川まちづくりの会事務局(河川計画課:松本)
昨年度の東海地方は5月28日に梅雨入りし、平年ですと6月8日だそうですので
そろそろ傘など新調して、梅雨時を楽しんでみては如何なものでしょうか。
さて、、、今日は、堀川歴史探索の4回目として「市街を水害から守る堀川」をご紹介したいと思います。
そう。今回で4回です。
「そろそろネタ切れかな~」と思ったあなた。
甘いです。堀川の歴史は深いんです。まだまだいっぱいネタがありますよ♪
いっぱいありすぎて、どれからご紹介したらいいか悩みがつきません。
前置きはこれくらいにして、、、、
今回は「そろそろ梅雨入り」ということで、市街から堀川を守っている母なる川「堀川」をご紹介していきます。
人間にとって川の最大の役割は水を安全に流すことです。時には大雨が降り一時に大量の水が川に集まり、水害により大きな被害を与えることもあります。また、市街地の排水が十分でないと、伝染病がまん延することもあります。
堀川は地域の川として大きな役割を担ってきました。碁盤割の市街地は名古屋台地にあり水害を受けにくい場所ですが、台地の北や西は土地が低く、何度も水害にあっています。明和4年(1767)には矢田川の堤防が切れ、名古屋城の幅下門近くまで水につかり、人々が舟で行き来したとの記録が残っています。これをきっかけに天明4年(1784)に大幸川が江川から堀川に流入するよう流路が変えられています。

また、昭和34年(1959)の伊勢湾台風では堀川の護岸も崩れ、高潮と重なり中下流域は大きな被害を受けました。このため名古屋港に沿った高潮防潮堤と堀川の河口に防潮水門が設置されました。
(以前ご紹介した記事:「堀川マニアックスポット② 構造物マニア必見」http://horimachi.blog.fc2.com/blog-entry-32.html
下水道が整備されるまで、各家の排水は側溝に流れ、幹線の排水路を経て堀川に流れ込んでいました。堀川の支川で一番大きいのは紫川でした。古地図を見ると碁盤割の市街地を南北に流れる水路と、広小路を東西に流れる水路があり、碁盤割の市街地の排水を集め、今の新洲崎橋付近で堀川に流入していました。

下水道が整備された現在では、家庭などから排水される汚水を下水管で集め、下水処理場で処理してから川に放流しています。堀川の流域は、汚水と雨水を同じ管で集める合流式下水道を採用しているため、降雨時には一定量までの雨水は下水処理場で処理されますが、一定量を越えた雨水は所々に設けられた雨水吐室などから堀川に放流され、堀川と下水道で街を浸水から守っています。


【H25年9月4日秋の集中豪雨@納屋橋付近】平成の現代においても堀川は重要な洪水調整機能を保っている。
いかがでしたか?昔から都市型水害から名古屋を守ってきた堀川。
他には、古くは武田信玄が甲府盆地を水害から守るために1542年に釜無川・御勅使川・塩川の三川合流を行い、あの「信玄堤」を築いたことは有名です。
また、安土桃山時代には富山城主佐々成政が越中国(えっちゅうのくに:現富山県)を守るため常願寺川に「佐々堤」をつくっています。
先人の努力に感謝感謝ですね。
まさに百年の計、一樹百穫。
次回をお楽しみに!!
堀川まちづくりの会 会員の方の書き込みもお待ちしております!!お気軽にご投稿ください♪
@堀川まちづくりの会事務局(河川計画課:松本)