堀川七橋~納屋橋①
- 2014/09/11
- 10:03
堀川七橋シリーズ第2弾
今回は「納屋橋①」です。
なぜ「①」って、そりゃ納屋橋はネタが多いから一回の投稿では書ききれないからです。ご容赦を。
さて、その納屋橋。
中村区名駅南一丁目から中区栄一丁目へぬける橋で、広小路通りが堀川にかかっています。
かつては、この一帯が「納屋町」であったことからこの橋の名前が名付けられました。

清州越えによって、慶長15年(1610年)にはじめて架けられましたが、その後、正保4年(1647年)に改築、
元禄13年(1700年)の大火も免れて、さらに寛保3年(1743年)に改築が施されました。
明治になって、19年(1886年)広小路通の改修の際に、橋の幅を拡張、同24年(1891年)の濃尾地震の被害により
翌年さらに改修されていきます。

(明治19年頃)
架け替え前の納屋橋。まだ木製ですね。橋台は石造りで二組の橋脚が川の中に建ち、よーく見ると真ん中の車道の中に電車のレールが轢いてあることがわかります。
当時のお父さんたちの出勤風景でしょうか?
うつむいているお父さんもいます。
今も昔も サラリーマンは大変だ。。。

(明治45年頃)
当時の納屋橋の幅は九間(16.4M)ほどであり、発展していく納屋橋界隈にとっては橋巾がせまく、ボトルネックと
なっていました。明治41年に愛知県は橋の改築と道路拡張を発案しましたが、当時はなかなか同意を得られず、架け替えまでには少し時間を要したようです。
そして、ついに当時最新鋭であった公営八幡製鉄所に鋼材を発注し、きたる明治45年2月9日に工事が開始されました。
長さ27.4M、幅21.6M、石の親柱に鉄製の欄干、中央部にもバルコニーのような「ふくらみ」をもった、当時珍しい
意匠を凝らした橋が4年の歳月をかけて大正2年(1913年)完成しました。
この時に、現在の納屋橋のカタチになったのですね。

(大正2年5月:カブトビールの建物も遠方に確認できる。当時カブトビールは東海地方最大のシェアを誇っていた。)
当時はまだほとんどの橋は木造で木鉄混用の橋が少しづつ増えている時代に、名古屋では2番目の
近代的な橋として(1番は「記念橋」)、鉄石混用の橋として完成したのです。
工費は当時の金額で13,400円であったと言われています。
ちなみに大正2年の1円は現在の1,027倍の価値があったといわれています(当時はうな重の並が40銭!)。
今では「レトロ」と言われていますが大正の当時は「ハイカラ」と言われていたようですよ。
「堀川②」へつづく
@堀川まちづくりの会事務局(河川計画課:松本)
今回は「納屋橋①」です。
なぜ「①」って、そりゃ納屋橋はネタが多いから一回の投稿では書ききれないからです。ご容赦を。
さて、その納屋橋。
中村区名駅南一丁目から中区栄一丁目へぬける橋で、広小路通りが堀川にかかっています。
かつては、この一帯が「納屋町」であったことからこの橋の名前が名付けられました。

清州越えによって、慶長15年(1610年)にはじめて架けられましたが、その後、正保4年(1647年)に改築、
元禄13年(1700年)の大火も免れて、さらに寛保3年(1743年)に改築が施されました。
明治になって、19年(1886年)広小路通の改修の際に、橋の幅を拡張、同24年(1891年)の濃尾地震の被害により
翌年さらに改修されていきます。

(明治19年頃)
架け替え前の納屋橋。まだ木製ですね。橋台は石造りで二組の橋脚が川の中に建ち、よーく見ると真ん中の車道の中に電車のレールが轢いてあることがわかります。
当時のお父さんたちの出勤風景でしょうか?
うつむいているお父さんもいます。
今も昔も サラリーマンは大変だ。。。

(明治45年頃)
当時の納屋橋の幅は九間(16.4M)ほどであり、発展していく納屋橋界隈にとっては橋巾がせまく、ボトルネックと
なっていました。明治41年に愛知県は橋の改築と道路拡張を発案しましたが、当時はなかなか同意を得られず、架け替えまでには少し時間を要したようです。
そして、ついに当時最新鋭であった公営八幡製鉄所に鋼材を発注し、きたる明治45年2月9日に工事が開始されました。
長さ27.4M、幅21.6M、石の親柱に鉄製の欄干、中央部にもバルコニーのような「ふくらみ」をもった、当時珍しい
意匠を凝らした橋が4年の歳月をかけて大正2年(1913年)完成しました。
この時に、現在の納屋橋のカタチになったのですね。

(大正2年5月:カブトビールの建物も遠方に確認できる。当時カブトビールは東海地方最大のシェアを誇っていた。)
当時はまだほとんどの橋は木造で木鉄混用の橋が少しづつ増えている時代に、名古屋では2番目の
近代的な橋として(1番は「記念橋」)、鉄石混用の橋として完成したのです。
工費は当時の金額で13,400円であったと言われています。
ちなみに大正2年の1円は現在の1,027倍の価値があったといわれています(当時はうな重の並が40銭!)。
今では「レトロ」と言われていますが大正の当時は「ハイカラ」と言われていたようですよ。
「堀川②」へつづく
@堀川まちづくりの会事務局(河川計画課:松本)